1700円で購入可能な将軍。装甲能力、行軍能力共に最高レベルの★6つであり、金に糸目を付けないユーザーから非常に重宝されている。さらに本作ではHPが半分以下になると攻撃力が上昇するスキル「鋼鉄の洪水」を装備しており、前作より使いやすくなった。火力を重視するならば、英雄の勲章、自由の勲章、十字の勲章を装備することを推奨する。また突撃の勲章を装備させ、電撃戦をレベル5まで強化すると、90パーセントの確率で敵ユニットを反撃不能にするため、これを装備してみるのもよい。(筆者は英雄、自由、十字の勲章を装備させている。条件次第では歩兵に攻撃した際に500近くのダメージを与えることが可能。敵火砲に300以上のダメージを与えることさえある。リスタート活用法で100%反撃されないため、突撃の勲章を装備させず、火力に特化させた。)
なお、無課金で入手可能なグデーリアンと彼を比較すると、後者は行動力において優勢だが、前者は(鋼鉄の洪水を装備させなければ)マンシュタイン同様の火力を叩き出しつつ、流言で士気を低下させることが可能。とは言え彼の有名なセリフ(と世間では流布されている伝説的な文句)、「プロイセン軍人は反逆せず」の通り、指揮官閣下各位の期待を裏切らない働きをしてくれる。
1887年11月24日、フリッツ・エーリヒ・ゲオルグ・エデュアルド・フォン・レヴィンスキー(のちのマンシュタイン)はドイツのベルリンで誕生した。エーリヒの母、ヘレーネ(旧姓シュペルリンク)は子供がいない妹のヘートヴィヒに対し、男の子が産まれたら養子にすると約束していた。ヘートヴィヒの夫ゲオルク・フォン・マンシュタインの一家(レヴィンスキー、シュペルリンク両家もそうだが)は生粋の貴族であった。
二次大戦勃発後、現代的な表現を用いれば再雇用された老将軍、ゲルト・フォン・ルントシュテットの参謀長として彼に付き従った。フランス侵攻作戦ではヒトラーに対し、オランダ、ベルギーに陽動部隊を送り込み、英仏連合軍が主力を彼の地へ向けると同時に、装甲部隊にアルデンヌを突破させる計画を提案し、当作戦の勝利に貢献した(第二次大戦のヨーロッパの枢軸国側第3ミッション、尚、彼は当作戦発令時には休暇の為、リーグニッツの自宅にいた。戦線へ舞い戻るがヴィルヘルム・リスト将軍の下、ソンム川の下流を守る任務が与えられただけだった)。東部戦線では列車砲や自走砲などでセヴァストポリ要塞を陥落させ元帥に昇格。この時、実は手持ちの装甲部隊が想像以上に小規模だったので、これで攻撃するより主に砲兵と空軍で攻めるのが吉だと彼は考えていた。彼の火砲能力が高い理由は恐らくこのためであろう。
スターリングラードではソ連軍に逆包囲された第六軍の救援へ向かうも作戦は失敗に終わる(第二次大戦のヨーロッパの枢軸国側第10ミッション)。その後ハリコフの戦いでは機動防御戦術で一時的な小康状態を作ることに成功している。しかし持ちうる戦力を投入した最後の賭け、クルスクの戦いでは敗北を喫し(第二次大戦のヨーロッパの連合国側第5ミッション)、フォン・クルーゲ、ヴァルター・モーデルらとソ連の大地を焼き払いながら撤退していった。「機甲師団の安全とは常に移動することである」というマンシュタインの言葉通りに。
1944年3月末、機動防御を十分に理解しきれなかったヒトラーは、この扱いにくく尻込みせずに立てつく男を解任した。モーデルが後を引き継ぎ、マンシュタインは司令部を去った。その後、白内障が悪化し、合併症で失明の危機にさらされたため、自宅療養となった。視力が回復しても、総統はもはや元帥を信用しておらず、彼が軍司令官として復帰することは二度となかった。
終戦後、英軍に逮捕され軍事裁判にかけられた。東部戦線において自軍兵士の捕虜虐待や親衛隊へユダヤ人を引き渡し、虐殺を幇助した等で起訴された。彼は自身と、そして最後のご奉公として参謀本部を守るため証言台に立った。なんとか国防軍の清廉潔白は証明された(最も現在ではナチと"グル"だったとされている)が、彼自身は東部戦線で犯した犯罪行為の精算を命じられた。軍法会議副判士長アシュトン・ウェイドは「部下の陰に隠れ、上官命令を言い訳にする(マンシュタインの)姿を見て」、「(ハンブルグ裁判で印象を与えた)ケッセルリンクとは比べようがない」と述べている。死人に口なしの精神でヒトラーを始めとした政権に罪を押し付け、軍の汚点を拭おうとしていた。後に釈放され、西ドイツの軍顧問として祖国の再建に尽力した。
マンシュタインはしばしば、冷淡で頭のキレる人物と評される。それはあくまでも彼の一面であって全てではない。多趣味であり、水泳、乗馬、音楽鑑賞、チェス、ガーデニング、トランプなどを好み、部下を労わる温かさもあった。ドイツ軍人や軍関係者らとのやりとり、評価からこの人物を見てみる。
アドルフ・ヒトラー(ドイツの国家元首、陸軍総司令官)
「(マンシュタインは)軍事的に才能溢れる人物である」と評価。彼が大胆不敵且つ有効性のある計画を考案したことに総統もご満悦。しかし、「彼は(政治的に)信用ならない」とも述べており、さらに戦況悪化に伴い「マンシュタインは後退将軍だ」と堂々とぶちまけた。政治にはほぼ無関心で、ナチズムやその党員らを毛嫌いし、児戯とさえ見ていたマンシュタイン。高級将校の粛清もあり、終戦間際に息子のリュディガーに対して「SDやSSの連中を一歩たりとも家に入れるな」と厳命したほどだ。他の将帥同様政治は政治屋に任せ、我々は軍人の仕事に専念するを旨とした。東部戦線でドイツが受動的な立場に置かれるにつれてヒトラーは作戦は無論、戦術にまで口を挟んでくるようになったが、彼とマンシュタインのやり取りは次第に冷たいものとなり、両者はしばし激怒するまで険悪になった。もしヒトラーが軍の仕事に過剰に首を突っ込まねばソ連との戦争は引き分けに持ち込めたと(マンシュタイン自身は確信しており)ヒトラーを軍事的観点から批判している。ただ、ナチス政権発足後、「ヒトラーは階級間にある溝を埋めてくれるかもしれない」と歓迎的であった。
アレクザンダー・シュタールベルグ(マンシュタインの副官、中尉)
紳士であり好意を抱くような上官と、隅々までやってくれる忠実な副官の関係は1942年11月から始まる。彼の回想録はマンシュタインを知るための貴重な資料である。両者は乗馬、チェス、ブリッジなどを嗜んだ。1944年に解任され、眼の療養のため暗い部屋でサングラスをかけていたマンシュタインだが、この副官を方々に派遣し、戦況の詳細を報告させた。シュタールベルグをして、「彼の頭の中には地形が、地図が正確に収められており、その気になれば目を隠してもチェスのチャンピオンになれた」と言わしめた。
ヘルマン・ゲーリング(ドイツ空軍総司令官、国家元帥)
モルヒネとゲーリングをもじり、メーリングと呼ばれた元帥閣下。1933年、コルベルクのナチ党大会でマンシュタインは政治色が強まりつつある陸軍を懸念し、ゲーリングに一発かました。これが両者の対立の源流である。1939年、ベルクホーフで開催された会議に現れたゲーリング。場違いな格好、見せびらかずとも目に付く勲章を見たマンシュタインはいっそう嫌悪感を示し、思わず隣にいたフォン・ザルムート将軍に対し「あの太っちょが噂の人物ですかね」と囁いた。勿論ゲーリングもマンシュタインを嫌っていた。
ヴィルヘルム・カイテル(OKH総長、陸軍元帥)
ラカイ(召使い)と彼の名前をもじりラカイテルとあだ名された彼。マンシュタインが南方軍集団司令官の任務を解かれる前に、彼とゲーリングが結託して引きずり落した。マンシュタインを好いていたわけではないが、3度に渡って彼を参謀総長にすべきだとヒトラーに意見していた。マンシュタインはヒトラーの汚れ役を引き受けた者は誰だろうと同情心を一切示していなかった。1940年のフランス陥落時にカイテルが元帥へ昇格したことに不服だった(確かにカイテルは自ら軍を率いたわけでも参謀長だったわけでもないが、組織力、行政力は非常に高かった)。
ホルティ・ミクローシュ(ハンガリーの国家元首代理)
両者は一度、1937年の演習で出会い、宰相ホルティの城に招待された。マンシュタインはハンガリー軍のプロ意識に印象づけられた。ドイツ軍の騎士道精神となんら変わりないと彼は述べている。戦後、ニュルンベルクにある証人官房で日々ブリッジの相手として両者が対峙したエピソードはなかなか面白い。
イオン・アントネスク(ルーマニアの国家指導者、最高軍司令官)
ヒトラー同様、ほとんどのドイツ軍の将帥は同盟国の指揮官達に対して侮蔑の念をあらわにした。しかしマンシュタインは例外的にルーマニアの将兵にそのような態度を示すことはなかった。アントネスク元帥とは親友となり、セヴァストポリ要塞陥落後、アントネスクはマンシュタインに対し「カルパチア山脈で休暇をとってくれたまえ」と快く招待した。
ヘルマン・ホート(ドイツ陸軍上級大将)
大戦前、ホート夫人がマンシュタイン家を訪れた時の話である。彼は女性と会うのが好きではなかったが、新人メイドのトルーデルの不注意により、彼と夫人はバッタリ出会ってしまった。しかし夫人の対応に彼が快く応じたため、事なきを得た。また、ホートの息子ヨッヘンと、マンシュタインの娘ギーゼラが同い年で学校も同じだったため、彼らは家族ぐるみの付き合いを始める。スターリングラード戦より、ホートはマンシュタインの部下となった。身長以外では前者は後者より同等か格上だったが、それでもホートはマンシュタインに不平不満を漏らすようなことはなかった。上官の人柄や才能に感服していたようである。マンシュタインも彼の絶妙な指揮ぶりには感銘を受けており、ホートが山岳師団へ左遷される前に何としても引き留めようとヒトラーへ抗弁した。両者共々プロの軍人として互いに尊敬しており、まさに名コンビだったと言える。
フェードア・フォン・ボック(ドイツ陸軍元帥)
第二次大戦前の発言であるが、マンシュタインはボックを才能ある軍人であると評価した。ベルリンに危機が迫った1945年4月末、ボックとマンシュタインがデーニッツ海軍元帥を訪ね、祖国を取り巻く情勢について論じあった(デーニッツ回想録『10年と20日』)。敗戦後、降伏についての意見交換も兼ねてヴァイセンハウスの茶会にボックを招待したマンシュタイン。しかしお客はイギリス軍の機銃掃射に遭い娘と妻は即死、自身も重症を負う。マンシュタインは病院へ急行し包帯に巻かれたボックを目にした。患者は「マンシュタイン、ドイツを救ってくれ」と息も絶え絶え言い、数時間後に死亡した。
ハインツ・グデーリアン(ドイツ陸軍上級大将、装甲総監、参謀総長)
マンシュタインはフランス侵攻作戦で自説を強調するためにグデーリアンに相談をした。私自身は貴族出身で総統は耳を貸さないだろうが、総統から信頼されている彼が同調すれば、私の案件を理解するだろうと確信していた。事実、彼はマンシュタインに助力。戦後、「彼(グデーリアン)の働きぶりが英仏を海岸沿いまで追いやってくれた」と評価した。一方のグデーリアンもマンシュタインが黄計画発令以前に異動を命じられた際、「彼のような軍人が必要だ」と才を惜しんだ。クルスクの折、両者は軍の運用をめぐり対立。グデーリアンは新型戦車ティーガー、パンターの運用の為待ってくれと言い、マンシュタインはクルスク周辺のソ連軍が完全に強化される前に攻撃すべしと説いた。1944年に南方軍集団司令官を解任されて以降、グデーリアンに自分も復帰させるよう総統に頼んでくれと打診している。wikipediaには仲が悪いとあるが、少なくとも仕事上の交流は悪くない。むしろ回想録では互いに称賛に近い評価をしている。
大戦前、面白いことに両者は戦車の登場に対し異なる意見を出した。グデーリアンはこれこそ次世代の主力となるものだと考え、歩兵出身のマンシュタインはその利用価値を認めつつ、歩兵が持ちうる従来の力を再び取り戻せると見ていた。
ゲルト・フォン・ルントシュテット(ドイツ陸軍元帥)
この老将軍の下でマンシュタインは参謀長を務めた。両者の年齢は12も離れていたが、関係は極めて良好だった。細部まで気が利く部下と、ある程度部下に好きにやらせる上官。しかし戦後、ルントシュテットはマンシュタインの「ナチ的な言動」(と彼の目には映った)が気に食わないとのことで関係が拗れた。
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(ドイツ空軍元帥、男爵)
リヒトホーフェンと言えば従兄弟にあたるレッドバロンの方が有名だが、こちらもまた空軍指揮官として名を馳せた。1942年、クリミアで両者は顔を合わせる。互いに自負心が強い二人の間には時に摩擦が生じたが、会合は予想以上に円滑に進んだ。セヴァストポリとスターリングラードという絶景と地獄を戦った二人の信頼関係は厚く、クルスクにおいてリヒトホーフェン率いる部隊の直接的支援が得られないと知った時「せめて彼がいてくれれば」とマンシュタインは悲嘆にくれた。
参考文献
アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦』上・中・下、『スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943』
デニス・ショウォルター『クルスクの戦い』
マンゴウ・メルヴィン『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上・下
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