マンシュタインはしばしば、冷淡で頭のキレる人物と評される。それはあくまでも彼の一面であって全容ではない。水泳、乗馬、音楽鑑賞、チェス、ガーデニング、トランプなどを好み、部下を労わる温かさもあった。ドイツ軍人や軍関係者らとのやりとり、評価からこの人物を見てみる。
アドルフ・ヒトラー(ドイツの国家元首、ドイツ陸軍総司令官)
「(マンシュタインは)軍事的に才能溢れる人物である」と評価。彼が大胆不敵且つ有効性のある計画を考案したことに総統もご満悦。しかし、「彼は(政治的に)信用ならない」とも述べており、さらに戦況悪化に伴い「マンシュタインは後退将軍だ」と堂々とぶちまけた。政治にはほぼ無関心で、ナチズムやその党員らを毛嫌いし、児戯とさえ見ていたマンシュタイン。高級将校の粛清から警戒していたことが第一であるが、終戦間際に息子のリュディガーに対して「SDやSSの連中を一歩たりとも家に入れるな」と厳命したほどだ。勿論これには総統暗殺事件以降、マンシュタイン一家にも捜査の恐れがあったということもある。他の将帥同様政治は政治屋に任せ、我々は軍人の仕事に専念するを旨とした。東部戦線でドイツが受動的な立場に置かれるにつれてヒトラーは作戦は無論、戦術にまで口を挟んでくるようになったが、彼とマンシュタインのやり取りは徐々に冷めつつあり、両者はごく稀に激怒し合うまで険悪になった。もしヒトラーが軍の仕事に過剰に首を突っ込まねばソ連との戦争は引き分けに持ち込めたと(マンシュタイン自身は確信しており)ヒトラーを軍事的観点から批判している。ただ、ナチス政権発足後、マンシュタインは「ヒトラーはドイツ国民の階級間にある溝を埋めてくれるかもしれない」と歓迎的であった。
アレクザンダー・シュタールベルク(マンシュタインの副官、中尉)
紳士であり好意を抱くような上官と、隅々までやってくれる忠実な副官の良好な関係は1942年11月から始まる。彼の回想録はマンシュタインを知るための貴重な資料である。両者は乗馬、チェス、ブリッジなどを嗜んだ。シュタールベルクはクルスク戦の前、「壮年期にある大柄な灰色のサラブレッド(クラウツ:マンシュタインの愛馬、オスマンか?)」を呼び寄せ、毎日1時間ザポロージェのステップで馬を走らせていた。ブリッジについてだが、シュタールベルクがルールを知らなかったため、マンシュタインが下級将校3人を招集し、短期集中コースを受講させた。1944年に解任され、眼の療養のため暗い部屋でサングラスをかけていたマンシュタインだが、この副官を方々に派遣し、戦況の詳細を報告させた。シュタールベルクをして、「彼の頭の中には地形が、地図が正確に収められており、その気になれば目を隠してもチェスのチャンピオンになれた」と言わしめた。
ヘルマン・ゲーリング(ドイツ空軍総司令官、国家元帥)
モルヒネとゲーリングをもじり、メーリングと呼ばれた元帥閣下。1933年、コルベルクのナチ党大会でマンシュタインは政治色が強まりつつある陸軍を懸念し、ゲーリングに‘‘一発かました‘‘。これが両者の対立の源流である。1939年、ベルクホーフで開催された会議に現れたゲーリング。場違いな格好、見せびらかずとも目に付く勲章を見たマンシュタインはいっそう嫌悪感を示し、思わず隣にいたハンス・フォン・ザルムート将軍に対し「あの太っちょが噂の人物ですかね」と囁いた。戦後、「ゲーリングの強欲さと虚栄」には衝撃を受けたとも述べている。勿論ゲーリングもマンシュタインを嫌っていた。
ナチ党幹部からもマンシュタインは好かれておらず、ヨーゼフ・ゲッベルスは1943年、11月8日の日記に「(ハインリッヒ・)ヒムラ―は特にマンシュタインと対立しており、この上ない敗北主義者とみなしている。彼の他に能力のあるものが(軍司令官として)就いていれば東部戦線南方の状況は深刻になっていなかっただろう」と記していた。そしてマンシュタインも「ナチ党高官の振舞いに対して」むかむかしていた。
ヴィルヘルム・カイテル(OKH総長、ドイツ陸軍元帥)
ラカイ(召使い)と彼の名前をもじりラカイテルとあだ名された程、ヒトラーに忠誠的だった男。マンシュタインが南方軍集団司令官を解任される前、彼とゲーリングが結託して引きずり落した。マンシュタインを好いていたわけではない一方、その能力は高く評価しており、3度に渡って彼を参謀総長にすべきだとヒトラーに意見していた。
さて、マンシュタインの方もヒトラーの汚れ役を引き受けた者は誰だろうと同情心を一切示していなかったこともあり、カイテルを快く思っていなかった。1940年のフランス陥落時にカイテルが元帥へ昇格したことに対し不満を漏らしている(確かにカイテルは自ら軍を率いたわけでも参謀長だったわけでもないが、組織力、行政力は非常に高かった)。
ホルティ・ミクローシュ(ハンガリーの国家元首代理)
両者は一度、1937年の演習で出会い、宰相ホルティの城に招待された。マンシュタインはハンガリー軍のプロ意識に印象づけられた。ドイツ軍の騎士道精神となんら変わりないと彼は述べている。戦後、ニュルンベルクにある証人官房で日々ブリッジの相手として両者は対峙した。
イオン・アントネスク(ルーマニアの国家指導者、最高軍司令官)
ヒトラー同様、ほとんどのドイツ軍の将帥は同盟国たるルーマニアの指揮官達に対して侮蔑の念をあらわにした。しかしマンシュタインは将兵にそのような態度を示すことはなかった。これは数少ない例外である。アントネスク元帥とは親友となり、セヴァストポリ要塞陥落後、アントネスクはマンシュタインに対し「カルパチア山脈で休暇をとってくれたまえ」と快く招待した。
ヘルマン・ホート(ドイツ陸軍上級大将)
大戦前、ホート夫人がマンシュタイン家を訪れた時の話である。彼は女性と会うのが好きではなく、おまけに旅先で不愉快なことでもあったように見えた(マンシュタインの娘、ギーゼラ・リンゲンタール談)。追い打ちをかけるかのように新人メイドのトルーデルの不注意により、彼と夫人はバッタリ出会ってしまい、場の空気が一時、張り詰めた。しかし夫人の礼儀正しい対応に彼が快く応じたため、事なきを得た。また、ホートの息子ヨッヘンと、娘ギーゼラが同い年で学校も同じだったため、彼らは家族ぐるみの付き合いを始める。スターリングラード戦、第6軍の救出作戦からホートはマンシュタイン直属の部下となった。身長以外では前者は後者より同等か格上だったが、それでもホートはマンシュタインに不平不満を漏らすようなことはなかった。上官の人柄や才能に感服していたようである。マンシュタインも彼の絶妙な指揮ぶりには感銘を受けていた。
1943年のキエフ陥落の折、スケープゴートにされたホートが山岳師団へ左遷される前に、何としてでも彼を引き留めようとマンシュタインはヒトラーへ抗弁した。両者共々プロの軍人として互いに尊敬しており、(両者とも歩兵大将だったと言う意味においても)素晴らしい二人三脚ぶりだったと言える。
フェードア・フォン・ボック(ドイツ陸軍元帥)
ベルリンに危機が迫った1945年4月末、ボックとマンシュタインがカール・デーニッツ海軍元帥を訪ね、祖国を取り巻く情勢について論じあった(デーニッツ『10年と20日』)。ヒトラーの自殺後、降伏についての意見交換も兼ねてヴァイセンハウスの茶会にボックを招待したマンシュタイン。しかしお客はイギリス軍の機銃掃射に遭い同乗していた娘と妻は即死、自身も重症を負う。マンシュタインは病院へ急行し包帯に巻かれたボックを目にした。患者は「マンシュタイン、ドイツを救ってくれ」と息も絶え絶え言い、数時間後に死亡した。
ハインツ・グデーリアン(ドイツ陸軍上級大将、装甲総監、参謀総長)
マンシュタインはフランス侵攻作戦で自説を強調するためにグデーリアンに相談をした。私自身は貴族出身で総統は耳を貸さないだろうが、総統から信頼されている彼が同調すれば、私の案件を理解するだろうと確信していた。事実、彼はマンシュタインに助力。戦後、「彼(グデーリアン)の働きぶりが英仏を海岸沿いまで追いやってくれた」と評価した。一方のグデーリアンもマンシュタインが黄計画発令以前に異動を命じられた際、「彼のような才能ある軍人が必要だ」と惜しんだ。
クルスクの折、両者は軍の運用をめぐり対立。グデーリアンは新型戦車ティーガー、パンターの運用の為攻撃の延期を進言し、マンシュタインはクルスク周辺のソ連軍が完全に強化される前に攻撃すべしと説明した。1944年に南方軍集団司令官を解任されて以降、グデーリアンに対して「自分も復帰させるよう総統に頼んでくれ」と直接打診している。wikipediaには仲が悪いとあるが、少なくとも仕事上の交流は悪くない。むしろ回想録では互いの軍事的能力を称賛している。
大戦前、面白いことに両者は戦車の登場に対し異なる意見を出した。グデーリアンはこれこそ次世代の主力となるものだと考え、歩兵出身のマンシュタインはその利用価値を認めつつ、歩兵が持ちうる従来の力を再び取り戻すためには戦車、そして歩兵と共に随伴する強力な火砲のような兵器が必要であると見ていた。突撃砲(今作で言う戦車ユニットの突撃と火砲ユニットの火力を兼ねそろえた、自走式曲射砲とでも例えるべきか)はそのようなマンシュタインの歩兵部隊に対する要望より生み出された。この兵器は砲兵が役を担っていた敵戦線へのファーストストライクを担当した。それだけではなく強力な砲を搭載し、対戦車兵器としても立派に役目を果たし、待ち伏せ攻撃に定評があった。おまけに生産コストも安価だったため、連合軍には脅威であったことは想像に難くない。
エルヴィン・ロンメル(ドイツ陸軍元帥)
1940年2月17日、総統官邸でヒトラーの元へ彼とマンシュタインが訪れた。マンシュタインは奇襲に賭けたフランス侵攻作戦を総統に話すためだった、とノーマン・オーラーは『ヒトラーとドラッグ』にて語る。先に述べたグデーリアンの助言の件より少し後の話である。続いて1943年7月13日。東プロイセンはレッツェンのマウアー湖でマンシュタインは裸で泳いでいたが、そこへロンメルが訪れた。マンゴウ・メルヴィンは副官シュタールベルクの『回想の第三帝国ー反ヒトラー派将校の証言1932-1945』より引用し、これが両者の最初で最後の邂逅だったと述べる。
さてその晩、マンシュタインとロンメル、そして中央軍集団司令官であるクルーゲはOKHの客用宿舎で一緒になった。彼らはフランスの上等なワインを飲み始め、次第に口をすべらせ始めた。クルーゲは去り際に「以前の繰り返しになるが、私は貴官の下でいつでも働ける」と言い残した。程度に差はあれ三人の元帥は祖国の行く末を悲観していたが、その前にヒトラーは最高司令権を譲るとマンシュタインは答えた。一方ロンメルはそれに反論。マンシュタインが部屋を去る時、「小官もまた、閣下の下で働く用意があります」と告げた。
因みにクルーゲとロンメルはヒトラー暗殺に若干の関与、若しくは権力の座から降ろすことに賛成するような言動があった為に自ら命を落としている。マンシュタインの副官はなんと暗殺の実行犯、クラウス・フォン・シュタウヘンベルクと連絡を取っており、反体制派から「元帥を引き入れてくれ」と再三要求されていた。暗殺事件当日、詳細を知っていたシュタールベルクはアウトバーンで元帥と車に乗り、その旨を報告。「派手なアリバイ作り」と抵抗メンバーと接触させない為に車を乗り回し、バルト海で休暇を取るよう提言した。副官が言うには、この事件以来、自分もいつ疑われるのかとマンシュタインは「次第に不安になった」。
ゲルト・フォン・ルントシュテット(ドイツ陸軍元帥)
この老将軍の下でマンシュタインは参謀長を務めた。両者の年齢は12も離れていたが、関係は極めて良好だった。細部まで気が利く部下と、ある程度部下に好きにやらせる上官であり、「R(undstedt)の元で楽しく働いている」とマンシュタインはユタ・ジュビレ夫人に手紙で書いている。しかし戦後、ルントシュテットはマンシュタインの「ナチ的な言動」(と彼の目には映った)が気に食わないとのことで関係が拗れた。
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(ドイツ空軍元帥、男爵)
リヒトホーフェンと言えば従兄弟にあたるレッドバロンことマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの方が有名だが、こちらもまた空軍指揮官として名を馳せた。1942年、クリミアで両者は顔を合わせる。互いに自負心が強く、二人の間には時に摩擦が生じたが、会合は予想以上に円滑に進んだ。セヴァストポリとスターリングラードという天国と地獄を戦った二人の信頼関係は厚く、クルスクにおいてリヒトホーフェン率いる部隊の直接的支援が得られないと知った時「せめて彼がいてくれれば」とマンシュタインは悲嘆にくれた。軍事史家、ジェームズ・コーラムは、両者を「大戦中最も力を発揮した軍人の協力関係」だと評価している。
アシュトン・ウェイド(ニュルンベルグ裁判副判事長、少将)
判士団の一人であったウェイドは裁判に臨むマンシュタインを見て、「地味なスーツを着た彼は、中年の成功した医者か法律家か学者のようだった。感情を見せなかったが、非常に多弁だった」と語った。そんな彼も「捕虜虐待の問題に対して尋問がなされた時」、「ようやく答えに詰まって自信を無くしたように見えた」。
レオン・ゴールデンソーン(精神医科)
彼はヒトラーについてどう思ったのかとマンシュタインに尋ねた。以下が彼の回答である。「特異な人格と高度の知性とずば抜けた意思の持ち主であったが、その意思は善悪どちらにも向けられるであろうと考えていた」ゴールデンソーンは続けて質問した。「ヒトラーが良心の呵責を持っていないと気づいたのはいつか」「戦後、起こったことを聞かされたときである。ヒトラー暗殺事件の裁判やユダヤ人についての絶滅について聞いたときだ」。メルヴィンは「エルンスト・レームの粛清、ニュルンベルク人種法、チェコとポーランド侵攻のことを忘れてしまったようである」と皮肉たっぷりに書いており、ゴールデンソーンがマンシュタインに批判的な姿勢だったのも頷ける、と語る。
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