#author("2018-12-27T09:24:23+09:00","","")
#author("2019-03-15T08:30:31+09:00","","")
*将軍 [#g7b0e357]
|>|>|~将軍の情報|
|&attachref(ロンメル.png,,60%,title);|~階級|大佐|
|~|~HP|138%|
|~|~コスト||
|~|~歩兵|2|
|~|~装甲|6|
|~|~空軍|2|
|~|~火砲|3|
|~|~海軍|2|
|~|~行軍|3|
|~スキル|>|~効果|
|砂漠の戦いLv1|>|砂漠で戦闘する時、与ダメージが+5される|
|十字砲火Lv1|>|陸地で敵ユニットから攻撃を受けたとき、反撃ダメージ+6%|
|装甲突撃Lv2|>|装甲ユニットを指揮する時に、与ダメージが+12%|
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 恐らくプレーヤーの大多数が知っている、あるいは名前を聞いたことがある程有名な将軍。「伝説な将軍」で購入可能。砂漠の狐の名前に相応しいスキル「砂漠の戦い」を装備している。グデーリアンやマンシュタイン等優秀なドイツ軍装甲指揮官と比較すると、火力と行軍能力が劣っているが、雇用に掛かる勲章が圧倒的に少ない。また火砲能力が最大で星5だが砲兵用のスキルを装備しない限りうまあじがない。世界の覇者2のイラストを参考にしたのか、イギリス軍から鹵獲した砂嵐から眼を保護するにはほとんど意味のないゴーグルを着用している。因みに前作ではこのトレードマークのゴーグルは無かった。
 恐らくプレーヤーの大多数が知っている、あるいは名前を聞いたことがある程有名な将軍。「伝説な将軍」で購入可能。砂漠の狐の名前に相応しいスキル「砂漠の戦い」を装備している。グデーリアンやマンシュタイン等優秀なドイツ軍装甲指揮官と比較すると、火力と行軍能力が劣っているが、雇用に掛かる勲章が圧倒的に少ない。また火砲能力が最大で星5だが砲兵用のスキルを装備しない限りメリットがない(ロンメルを砲兵向きにするより、コーネフ、レープ等優秀な砲兵指揮官を育成することを推奨する)。世界の覇者2のイラストを参考にしたのか、イギリス軍から鹵獲した砂嵐から眼を保護するにはほとんど意味のないゴーグルを着用している。因みに前作ではこのトレードマークのゴーグルは無かった。

 エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルは1891年11月14日、ヴュルテンベルグの学校教師の家に生まれた。第一次大戦中は歩兵指揮官として戦功をあげる。その時の活躍を自著「歩兵の攻撃」にて語っている。ヒトラーはこの本を通読し、著者に関心を抱いた。ヒトラーの信頼を勝ち得たロンメルはズデーテン進駐、チェコ進入、ポーランド侵攻作戦(第二次大戦のヨーロッパの枢軸国側第1ミッション)に総統の護衛隊長として従事。この時彼は戦車に興味を持ったという。フランス侵攻作戦(第二次大戦のヨーロッパの枢軸国側第3ミッション)ではヘルマン・ホート大将麾下の第7装甲師団長として凄まじい速度で快進撃を続ける。翌年の1941年。「北アフリカに侵攻したイタリア軍を支援し、政治的理由でイタリアが枢軸国から脱退するのを防止する」ため北アフリカへ着任する。ここでも怒涛の進撃により瞬く間にトブルクの要塞を陥落させる。この功績により元帥に昇格した。しかし、兵站に問題が起こっていた。輸送用のトラックに不足はなかったもののあまりにも遠くへ進撃しすぎた為、燃料をはじめとする物資が圧倒的に不足していた。南方総軍司令官アルベルト・ケッセルリンク元帥が「補給の問題から、これ以上の進軍は困難だ。トブルクで防衛線を構築し、反撃に備えたほうがよい」とロンメルに提案したにも関わらず、彼は進軍を命じた。ハインツ・シュミット少尉によると彼はナイル河の占領を計画していたという。しかし1942年のエル・アラメインの戦い(第二次大戦のヨーロッパ枢軸国側第8ミッション)で大敗北を喫し、アフリカ戦線が崩壊してしまう。翌年、ヒトラーはロンメルの解任を決定(理由は不明確。ロンメルが病気だった、ロンメルが連合軍に捕まれば国民に多大な悪影響を及ぼしかねないなど様々である)した。その後、ノルマンディーでは兵力も質も非常に劣悪なB軍集団を指揮するもノルマンディー上陸作戦の当日には妻の誕生日を祝う為ドイツへ帰るという失態を犯す(第二次大戦のヨーロッパ連合国側第8ミッション)。同年、イギリス軍の戦闘機の銃撃で負傷し、一命を取り留めるも、ヒトラー暗殺に加担した疑惑で自殺を強いられる。1944年10月13日、自身の名誉と家族の安全を守る為ヘルリンゲンの自宅近くで自ら命を絶った。
 エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルは1891年11月14日、ヴュルテンベルグの学校教師の家に生まれた。第一次大戦中は歩兵指揮官として戦功をあげる。その時の活躍を自著「歩兵の攻撃」にて語っている。ヒトラーはこの本を通読し、著者に関心を抱いた。ヒトラーの信頼を勝ち得たロンメルはズデーテン進駐、チェコ進入、ポーランド侵攻作戦(第二次大戦のヨーロッパの枢軸国側第1ミッション)に総統の護衛隊長として従事。この時彼は戦車に興味を持ったという。フランス侵攻作戦(第二次大戦のヨーロッパの枢軸国側第3ミッション)ではヘルマン・ホート大将麾下の第7装甲師団長として凄まじい速度で快進撃を続ける。翌年の1941年。「北アフリカに侵攻したイタリア軍を支援し、政治的理由でイタリアが枢軸国から脱退するのを防止する」ため北アフリカへ着任する。ここでも怒涛の進撃により瞬く間にトブルクの要塞を陥落させる。この功績により元帥に昇格した。しかし、兵站に問題が起こっていた。輸送用のトラックに不足はなかったもののあまりにも遠くへ進撃しすぎた為、燃料をはじめとする物資が前線部隊に行き届いていなかった。南方総軍司令官アルベルト・ケッセルリンク元帥が「補給の問題から、これ以上の進軍は困難だ。トブルクで防衛線を構築し、反撃に備えたほうがよい」とロンメルに提案したにも関わらず、彼は進軍を命じた。ハインツ・シュミット少尉によると彼はナイル河の占領を計画していたという。しかし1942年のエル・アラメインの戦い(第二次大戦のヨーロッパ枢軸国側第8ミッション)で大敗北を喫し、アフリカ戦線が崩壊してしまう。翌年、ヒトラーはロンメルの解任を決定(理由は不明確。ロンメルが病気だった、ロンメルが連合軍に捕まれば国民に多大な悪影響を及ぼしかねないなど様々である)した。その後、ノルマンディーでは兵力も質も非常に劣悪なB軍集団を指揮するもノルマンディー上陸作戦の当日には妻の誕生日を祝う為ドイツへ帰るという失態を犯す(第二次大戦のヨーロッパ連合国側第8ミッション)。同年、イギリス軍の戦闘機の銃撃で負傷し、一命を取り留めるも、ヒトラー暗殺に加担した疑惑で自殺を強いられる。1944年10月13日、自身の名誉と家族の安全を守る為ヘルリンゲンの自宅近くで自ら命を絶った。

 ヒトラー暗殺に関与したのかどうかは定かではない。しかしこのような既成事実もある。1943年7月13日、東プロイセンの湖ですっ裸のエーリヒ・フォン・マンシュタインと出会った時の話である。会議のあと宿泊施設で一緒になった二人はドイツの今後について話をした。ワインが回りはじめると、ロンメルはドイツの今後について「トランプの家の崩壊のようだ」と語った。マンシュタインが部屋を出る際に、彼は「私は貴官の下でいつでも働ける」と宣言している。また、度々独断専行により上官達と衝突した。国防軍上層部では嫌われる一方、党と民衆と兵士達からの人気は絶大であった。

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