#author("2019-03-31T14:57:15+09:00","","") *将軍 [#z1e94c75] |>|>|~将軍の情報| |&attachref(南雲_0.png,,60%,title);|~階級|大尉| |~|~HP|124%| |~|~コスト|1785| |~|~歩兵|1| |~|~装甲|1| |~|~空軍|4| |~|~火砲|2| |~|~海軍|6| |~|~行軍|2| |~スキル|>|~効果| |水夫Lv2|>|海上で敵ユニットから攻撃を受けた時、反撃ダメージ+12%| |掩体Lv1|>|敵のミサイルユニットからのダメージを6%無効化する| |艦隊指揮官Lv2|>|艦船ユニットを指揮する時に、16%の確率で致命的な一撃を与える| ||>|| ||>|| **備考 [#dd90e29a] 南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年(明治20年)3月25日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。正三位勲一等功一級。 死後一階級特進前の階級は海軍中将。 **エピソード [#bdaff323] 戦前、彼は「艦隊派」(軍縮条約に反対)であり、山本や井上とは対立していた。 豪胆な性格で、第一課長の井上成美と激しく対立し、酒気を帯びて井上に対し「貴様なんか殺すのは何でも無いんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやればそれっきりだ」と発言したことがある。 彼はもともと航空戦よりも、戦艦の砲雷撃戦を重視する前時代的な思考を持っていた。彼は航空戦ではなく、水雷戦術の第一人者だった。しかし真珠湾奇襲に始まる南方作戦を連戦連勝に導いたのは、彼の軍人的手腕があったからに他ならない。 彼の指揮する第一航空戦隊(一航戦)では、インド洋でも大活躍であり、セイロン沖海戦ではわずかな航空機を失っただけだった。 しかし勝利に続く勝利で、慢心と疲労が溢れていた状態のまま、太平洋(大東亜)戦争の天王山であるミッドウェー海戦を戦うことになる。 日本海軍は、ミッドウェイ島の攻略を行えば、米国との講和を有利に進められると考え、また米空母の日本本土空襲に対する脅威も取り除きたかった。 そのためミッドウェー海戦は、同島攻略を目指す日本の機動部隊と、それを迎撃する米機動部隊との戦いになった。 日本に対し、チェスター・ニミッツ指揮官率いるアメリカ海軍は、綿密な暗号解読を行っていた。 これにより、日本の戦術は完全に解読され、アメリカ側に筒抜けになってしまったのである。 ミッドウェー海戦は精鋭空母四隻を失う、日本海軍始まって以来の歴史的惨敗となってしまった。 山口多門率いる二航戦の空母「飛龍」はアメリカ側の空母(ヨークタウン)を沈めたが、日本側の負けは明白であった。 だが不幸中の幸いだったのは、精鋭パイロットの喪失が少なかったことと南雲が生き残れたことであった。 南太平洋海戦は日本海軍最後の勝利だった。彼は優秀な空母を率いて、敵の空母「ホーネット」の撃沈に一役買った。 彼の最後の戦いはサイパン防衛戦だった。サイパンが今再びアメリカの手に渡れば、日本本土が危ない。 しかし奮戦むなしく、護衛の第一機動部隊はマリアナ沖で壊滅。 彼は米軍の激しい攻撃にさらされることになる。 彼は最後に切腹をしてサイパンの地で果てた。 最後は日本の方角を向き、割腹と同時にそれぞれの専属副官に後頭部を撃たせた。彼の最期の言葉は副官の「よろしうございますか」という問いに「どうぞ」だった。享年57。 彼を堅実な知将とするか、それともミッドウェーの大敗を犯した愚将とするかは、人によって違いがあるだろう。しかし大戦初期の勝利は確かに本物であり、彼も第二次世界大戦の名だたる司令官の一人なのだ。 彼が重視した人物の中に源田実がいる。源田は大戦中に優秀な撃墜王を育成し、戦後は航空自衛隊設立にも携わった。航空幕僚長を務め、アクロバット飛行部隊「ブルーインパルス」を設立した。航空自衛隊の父ともいえる人物で、日本の空軍史とは切っても切れない人物である。 **コメント [#p41168ac] #pcomment(reply)