パットンは前述した通り防御型の戦車将軍である。そして基本的にはこのゲームは攻撃型の方が強い。しかし、第三戦車将軍くらいになってくるとコレクションが無かったり、スキル編成が弱くなってくる。したがって第一、第二戦車将軍等のより火力の出る将軍とその火力を守ることが重要になってくる。
この場合パットンは適任であろう。塹壕で敵火砲からのダメージを30%無効化して、弾受けということですぐに体力が半減するだろうが鋼鉄の洪水で火力減を軽減できる。さらに行軍が★5とグデーリアンと同じ速さで動けるので、友軍よりも前に行くことでの前線での弾受けのしやすさもある。
基本的には雇用は非推奨だが、それは攻撃型戦車将軍としてである。防御型戦車将軍ならばパットンも選択肢に入るだろう。
ちなみに、征服のTAでは「空軍将軍」として使う場面がある。(1943年ソ連9ターンクリアでの攻略にて使用)パットンはどうしても死にスキルに目が行ってしまうのが難点だが、「非常に高い行軍能力に加えて☆4の空軍能力を誇れ、最高クラスの装甲運用ができる」ゴールド将軍であるため、各盤面に対する適応能力がかなり高いことが彼を運用するメリットの1つである。征服での運用、特にTAで更なる高みを目指す指揮官にとっては、実は類稀なるポテンシャルを秘めた将軍であるということは知っておくといいだろう。
ジョージ・スミス・パットン・ジュニア(George Smith Patton Jr.、1885年11月11日 - 1945年12月21日)はアメリカの陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。モットーは「大胆不敵であれ!(Be audacious!)」。
カリフォルニア州サン・ガブリエル生まれ。祖父ジョージ・パットン・シニアは南北戦争で南軍将校として従軍。またアメリカ独立戦争で戦ったヒュー・マーサー准将の血も引き継いでおり、アメリカ合衆国設立当初から続いている軍人一家の一員であった。
エピソード
幼少の頃から将軍になろうと英雄願望を持っていた。幼少時から妹と軍人ごっこをして遊んでおり、その頃から「パットン中将(Lieutenant General Georgie S. Patton, Jr.)」を名乗っていた。古典文学と戦史を勉強する知的な子供ではあったが、基礎的な学習能力に問題があり、学校教育の全体にわたって影響した。他の子に比べ読み方を学ぶのが遅れ、綴り方のような基本的学習を行わなかった。今でいう失読症であったと言われている。
ウェストポイント卒業後、近代五種競技のアメリカ合衆国代表として、1912年のストックホルムオリンピックに参加。近代五種は伝統的にヨーロッパ勢が強く、5位という成績を残す。
輪廻転生、北欧神話の信仰者でもあった。多くの文献が、彼が自身をカルタゴのハンニバル将軍の再来であると主張したことを記している。他にもナポレオンとともに戦ったとも言い、ローマの軍団兵であったとも主張していた。
第一次世界大戦にアメリカが参戦するにあたり、パーシング将軍はパットンを大尉に昇進させた。フランスにおいてパーシング将軍は、パットンに新しく編制されたアメリカ戦車部隊の戦闘指揮を取らせた。
ミューズ・アルゴンヌ方面での作戦において負傷し、戦時昇進により大佐にまで昇進した。ちなみにパットンは第一次世界大戦に参加した将兵では珍しく、塹壕戦と言うものを全く無意味だと信じており、次の戦争は塹壕を掘ったり陣地を守ったりで勝敗が決まることは無く、機動力で決するであろうと信じていた。
戦場にロマンチズムを求め、戦場に生き生きとする戦争狂とも言えるその生涯であったが、皮肉にも最期の言葉は「(自動車事故は)軍人の死に様ではないな」だったという。ただしこの欠点を自分でもある程度は認識していたようで、日記や妻には自分が「Too damn military(軍人らしすぎる)」と反省を込めて書いている(しかし態度は改まらなかった)。
1935年ナチスが制定したニュルンベルク法の原本を入手し故郷の図書館に寄贈している。また、パットンは非常に口が悪い事で有名で、彼の映画を作る際には実際の彼が言った言葉を修正して緩く表現せねばいかんレベルだった。
「職業軍人には理想的な死に方がある。最後の戦場で最後の弾を受けて死ぬことだ。栄光はいつか消え去るのである。」
彼のこの言葉は、戦争と戦場に全てを求め、狂った男としての人間を表している。
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