将軍の情報 | ||
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![]() | 階級 | 大佐 |
HP | 138% | |
コスト | 初期:2785 20%引き:2228 40%引き:1671 | |
歩兵 | ★★★★★★ | |
装甲 | ★★★★★★ | |
空軍 | ★★★★★★ | |
火砲 | ★★★☆☆★ | |
海軍 | ★★☆☆★★ | |
行軍 | ★★★★★★ | |
スキル | 効果 | |
砂漠の戦いLv1 | 砂漠で戦闘する時、与ダメージが+5される | |
十字砲火Lv1 | 陸地で敵ユニットから攻撃を受けたとき、反撃ダメージ+6% | |
装甲突撃Lv2 | 装甲ユニットを指揮する時に、与ダメージが+12% |
恐らくプレーヤーの大多数が知っている、あるいは名前を聞いたことがある程有名な将軍。「伝説な将軍」で購入可能。砂漠の狐の名前に相応しいスキル「砂漠の戦い」を装備している。グデーリアンやマンシュタイン等優秀なドイツ軍装甲指揮官と比較すると、火力と行軍能力が劣っているが、雇用に掛かる勲章が圧倒的に少ない。火砲能力が最大で星5だが砲兵用のスキルを装備しない限りメリットがない(ロンメルを砲兵向きにするより、コーネフ、レープ等優秀な砲兵指揮官を育成することを推奨する)。世界の覇者2のイラストを参考にしたのか、イギリス軍から鹵獲した砂嵐から眼を保護するにはほとんど意味のないゴーグルを着用している。因みに前作ではこのトレードマークのゴーグルは無かった。
前作の使い勝手の悪さ(電撃戦無くてモロに敵の攻撃を食らう、砂漠の戦いレベルMax、宇宙人戦で死ぬスキル持ち)とは違い、今作では大幅に応用が利く。
追加スキルがつけられるようになった恩恵を受けている一人。(砂漠の狐という異名があるから、砂漠の戦いを付けているのだろうが、もうそろそろ無くしてもいいんじゃないか..)
砂漠の戦いは死にスキルなので、上げる必要は一切ない。
十字砲火は、装甲突撃と電撃戦(付与)をしっかり上げてから、強化するといい。
現代戦で将軍が乗ってないタイタン戦車や歩兵に中々の反撃ダメージを繰り出すようになる。
エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルは1891年11月14日、ヴュルテンベルグの学校教師の家に生まれた。第一次大戦中は歩兵指揮官として戦功をあげる。その時の活躍を自著「歩兵の攻撃」にて語っている。ヒトラーはこの本を通読し、著者に関心を抱いた。ヒトラーの信頼を勝ち得た彼はズデーテン進駐、チェコ進入、ポーランド侵攻作戦(第二次大戦のヨーロッパの枢軸国側第1ミッション)に総統の護衛隊長として従事。この時彼は戦車に興味を持ったという。
フランス侵攻作戦(第二次大戦のヨーロッパの枢軸国側第3ミッション)ではヘルマン・ホート大将麾下の第7装甲師団長として凄まじい速度で快進撃を続ける。翌年の1941年。「北アフリカに侵攻したイタリア軍を支援し、政治的理由でイタリアが枢軸国から脱退するのを防止する」ため北アフリカへ着任する。ここでも怒涛の進撃と巧みな部隊の運用方法、砂煙を用いた偽装術などにより瞬く間にトブルクの要塞を陥落させる。この功績により元帥に昇格した。しかし、すでに兵站に問題が起こっていた。輸送用のトラックに不足はなかったもののあまりにも遠くへ進撃しすぎた為、燃料をはじめとする物資が前線部隊に行き届いていなかった。南方総軍司令官アルベルト・ケッセルリンク元帥が「補給の問題から、これ以上の進軍は困難だ。トブルクで防衛線を構築し、反撃に備えたほうがよい」とロンメルに提案したにも関わらず、彼は進軍を命じた。ハインツ・シュミット少尉によると彼はナイル河の占領を計画していたという。ロンメルの唯我独尊ぶりが陸軍上層部の反感を買っていたのもひとつの理由だが、ソ連との最終決戦を控えていたということもあり、北アフリカ戦線はひとまず現状維持とし、まずはモスクワを片付けてから増援を送ると約束した。興味深いことにドイツ海軍がロンメルのナイル占領を支持していた。彼らは英仏海峡や大西洋でイギリス海軍相手に戦っていたからである(スエズ運河が枢軸陣営の手に落ちれば、イギリス海軍はわざわざ喜望峰を廻ってこなければならない)。
しかし1942年のエル・アラメインの戦い(第二次大戦のヨーロッパ枢軸国側第8ミッション)で大敗北を喫し、アフリカ戦線が崩壊してしまう。翌年、ヒトラーはロンメルの解任を決定(彼が病気だった、連合軍の捕虜になればドイツ国民の戦意が大幅に削がれる可能性があるなど様々ではっきりしない)した。その後、ノルマンディーでは兵力も質も非常に劣悪なB軍集団を指揮するもノルマンディー上陸作戦の当日には妻の誕生日を祝う為ドイツへ帰るという失態を犯す(第二次大戦のヨーロッパ連合国側第8ミッション)。同年、イギリス軍の戦闘機の銃撃で負傷し、一命を取り留めるも、ヒトラー暗殺に加担した疑惑で自殺を強いられる。1944年10月13日、自身の名誉と家族の安全を守る為ヘルリンゲンの自宅近くで自ら命を絶った。
ヒトラー暗殺に関与したのかどうかは定かではない。しかしこのような話もある。1943年7月13日、東プロイセンの湖ですっ裸のエーリヒ・フォン・マンシュタインと出会った時の話である。会議のあと宿泊施設で一緒になった二人はドイツの今後について話をした。ワインが回りはじめると、ロンメルはドイツの今後について「トランプの家の崩壊のようだ」と語った。マンシュタインが部屋を出る際に、ロンメルは「私は閣下の下でいつでも働けます」と宣言している。また、度々独断専行により上官達と衝突した。国防軍上層部では大層嫌われる一方、戦意高揚のために彼を利用した党とそれに踊らされた民衆と一部の兵士達からの人気は絶大であった。
戦中から20世紀にかけて、様々な書籍や人物が語るロンメル像は「騎士道精神を重んじた、偉大なる戦略家」というのがほとんどである。しかし21世紀、2010年代からはそれに異議を唱える者が現れた。大木毅は『灰緑色の戦史』において狐はほんとうに賢かったのかと疑問を投げかけている。大木は「孫氏は、『将とは智、信、仁、勇、厳だ』と断じ、これに従って」評価を下した。智については戦略に問題はあるが「師団長レベルの下級司令官までなら」良しとしている。信と仁、勇と厳については概ね肯定しているが、信については「上層部との軋轢があった」としている。ただ筆者は勇について少々疑問を感じている。ノーマン・オーラーは『ヒトラーとドラッグ』にて、ロンメルは当時ドイツ軍で服用が推奨されていたぺルビチン(現代で言う覚醒剤)を使用していたと語る。1940年のフランス侵攻で驚異的速度で敵地を駆け抜けられた理由として、戦争狂のジョージ・パットンのように勇敢過ぎたと言うより、メタンフェタミンの摂取で危険を感知する能力がすっかり低下していたからだと考えられる。
また、しばしロンメルが88ミリ砲の標準を陸軍部隊へ直接向けた初めての人物というコメントが見られるが、同書にて大木は「(大戦初期より88ミリ高射砲が対装甲兵器として有効であるのは知られていた。)1939年9月8日のイルザ村の戦闘において、第22高射砲連隊第1大隊が包囲網を突破するために戦車を前面に出し攻撃を仕掛けたポーランド軍に対して88ミリ砲を運用した」と述べている。加えて当時ヒトラーの護衛隊長であったロンメルも恐らくこれを知っていただろうと推測している。
かくのごとくロンメル神話は崩壊しつつあるが、それでも大胆で独創的な鮮やかな戦術は決して色あせるものではなく、立派で悲劇的な軍人として今日でも尊崇されているのである。
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